昭和49年05月12日 朝の御理解
御神誡 一、「真の道の心得 一「天の恩を知りて地の恩を知らぬこと。」
「天の恩を知りて地の恩を知らぬ事」と言うておられるが、実際人間が天の恩を知っておる者がどの位あるだろうかと、天は恵みに恵む物と、与えに与えて下さる天の恩を、それこそ天の恩も地の恩も知らぬ者の方が実は多いのじゃないだろうか。なるほど色々に天の恩を説いた人達は色々ありますね。けれども地の恩を説く人は先ずなかったと言う位にありましたのに、教祖は特に大地の恩と云う事を説かれた。それからこう言う風に表現しておられるのですけれども。
実際はその天の恩すらも、地の恩すらも解ってない人が沢山あるだろうと、天の恩を知らず、地の恩を知らずと言う。言うならば、親の恩を知らんと云う事も同じ事。いやいや、もっともっと大きな親の恩と云う事になるかも知れませんね、天地の恩と云う事は。ここでは、言うなら父の恩を知っても、母の恩を知らぬ事、と云う事にもなりましょう。果たして、その母の弧と、父の事だけではない。第一親の恩を恩と感じるならば、その恩に報いると云う事が親孝行である。
それが人間の幸せの根本である。親孝行の出来ない人におかげは受けられない。言うならば、お道の信心の根本は親孝行である。それをもっともっと広く大きく、まあ極大したのが天地の恩徳だと。天地の大恩「天の恩を知りて、地の恩を知らぬ事」と仰せられるけれども、その天の恩ですらも判らない。天地の恩と云う事など感じた事もない。そう言う人達が、例えばどう言う結果になるか。昨日光橋先生からでしたか、久富さんからだったでしょうか、聞いたんですけれども。
昨日テレビで最近大変な薬害の事が、テレビで報道しておったそうですね、薬の害です。子供にあんまり注射をするもんだから、歩けない様になってしまった。足がこう湾曲してしまって。それが全くその注射の害だと。いきなりにねさぁああしたならこげな薬を飲まんならん、こげんしたら何の注射射たんなんと。それがね天地の大恩も何も解らんなりにそう云う物が、言うなら出来ておるからそう言う結果になるのですよ。と私は思います。いわゆる薬万能医学万能とか科学万能とかと言う。
もうとかく自然を人間が克服出来る様な、かの様な自然を克服したとかと言う様な、本当に大それた表現ですしまた、こんなに天地に対するご無礼はないと私は思うです。本当に素直に素朴に、天地の大恩を大恩として、本当に噛み締めながらの日々である。生活である。天恩地恩に対してもっともっと私共がです。教祖様がお通りになった様な、もっともっと謙虚にそれを頂かしてもらう。そして私は、味合わせて頂くと云う事が、金光教祖の信心だと思う。天を拝し地を拝む。
そこから天地の中に育まれたと言うか、天地の中からお恵みによって頂けたそのものに、言わば初めて神恩、いわゆる天地の恩に対する奉謝の心、報いる心と言うのが自ずと出てくる。にじみ出る様に頂けれる。物を大切にするとか、食物を大切にするとか。又は、問題を大切にするとか、もう一切を大切にすると言うそのところがです。ただ大切にするだけではいけません。そこの天地の大恩を、天地の御恩恵を、思い判らせて頂いて初めて大切にすると云う事でなからなきゃなりません。
だからそこには必ず、おし頂く心と云う物が生まれて来る。それが素晴らしい。おし頂く心。それは言うならば、天地の大恩も知らずに、大切にする人はありますよ、色々物を大事にしながら、それも勿体ないから、それを天地の御恩恵のものであるから勿体ないではなくて、お金がかかっておるから勿体ない。人の手を煩わしているから勿体ない。だから、大事にしなければならない。それでは言うならば、天地に通いませんですね。言うなら、始末倹約と云った事もです。
それは大切にする事ですけれども、根本の所に対する感恩の心と云う物がない。天地に対する所の感謝の心があってはじめて、例えば物なら物一すくいの水でも、一粒のお米でも、天地の大恩が解らして頂いて、御恩恵を感じながら大切にすると云う所に、おし頂くと云う事になって来るのです。私はこの押し頂く心だと思うですね、素晴らしいのは。おし頂く心が無いなりに、例えばなら物を大切にすると言うのは、それは何処までも自分中心自己中心汚いそう言う風にです。
する人も沢山ありましょうけれども、天地の恩を知らずに、例えばお粗末にしてはならんと言う観念的なもので無くてです。天地の御恩恵のもの、天地の御恵みのものだから、大事にする。大切にする。そこに、押し頂くと言う心が生まれて来る。「天の恩を知りて地の恩を知らぬ事」と。果たして天の恩を知っておる、本当に知っておる者、天の恩だけでも知っておる者がどの位おるだろうかと。本当言うたら、天の恩も知らなければ、地の恩も知らぬ。そこでです私は思うんですが。
昨日は高山さんの所で、毎年行われます謝恩祭が、真心一杯のそう言う雰囲気の中に、謝恩祭が行われました。お祭の後に頂いたお話に、私は本当に成程と思わせて頂いた事で御座いましたけれども。真心と信ずると云う事に付いて頂いた。真心と信ずると云う事。丁度その十日の月例祭に、午後の四時の私の御祈念に併せて、吉井の波多野さんのお母さんのお立ち日、いわゆる帰幽日です。に、御霊様に御挨拶をしてくれと云う事でした。別に式年祭と云う訳ではない。
只年に一回の言わばお立ち日なんです。帰幽日なのです。それでその御取次をさせて頂きましたら色々それこそ甘菜・辛菜を取り揃えて御霊様に御供をなさった。それから是は家の庭に咲きました花ですと言うて、小さい花瓶に一輪挿の様に、お花を自分で生けられて御霊前に供えられた。その事でです。大変御霊様も最高のおかげ、いわゆる最高の御恵みとして受けて下さった。
またはある不安な事がある心配な事がある。例えて言うならばあら今日、今から出かけようと思うのに今にも降りそうになったが、今日のお天気途中で降る様な事は無いだろうかとこうそう言う不安なその御霊様であった。そしたら私はあぁあれがあの御霊様だろうとこう思わせて頂いたんですけれども、横からふっとこう雨傘を出して下さる所を頂いて、それをこう押し頂いてその喜ばれる言うなら情景を頂いた。
このまま行ったら途中から降り出すかもしれない。途中で濡れるかもしれない。傘がない。さあどうしたものかと人のこう、言うならば軒下の様な所にたたずんでおられる人に、「この傘をお持ちなさい」と言うて下さったような、言わば娘であるところの波多野京さんの、言うならば思いとか、真心とか、言うならば信ずる心がその様な働きになった。是を私は、昨日は、真、真心と、信ずる心だと言うて話した事です。
是は家の庭に咲いた花、と言うて一輪の花を供えられる。それが真心である。成程真心一つで助かると言う。もうそれこそ御供えでも何でも、どっちにどうのと言う事はない。庭のちり葉でも真心を込めてすれば良いのだと言うのが金光様の御信心。所が御神酒やらお饅頭やら、果物や、それこそ甘な辛なを揃えると云う事はです。是は沢山お金のかかる事。それはもう真心だけじゃない。神様を信ずるから、御取次をして下さる先生を信ずるから出来る事ですはね。
ですから信心には、この信ずると云う事とです。真心がです。一緒にこう育って行かなければならない。いわゆる真心と信ずる心「天の恩を知りて地の恩を知らぬ事」と。天の恩を信ずるけれども、地の恩は信じないではなくて、やはり天の恩を知り地の恩を知らなければならん。父親の恩が判ったら、母の恩も判って行かなければならん。金光様の御信心をさせてもらえば、愈々信ずる心が育って行かねばならんと同時に、真心もまた厚うなって行かなければならない。そこからです。
何とも言えん、言うなら信ずる心と真心が一つになる時です。私は押し頂く心と云う物が生まれて来ると思う。天の心地の心、その天の心、地の心が判る時に「天地日月の心になること肝要だ」と云う事になる。又は天地日月の心になること肝要と云う事がです。天が与えて与えて止まない物、地が受けて受けて受けぬいて行く物、それを日月の心。いわゆる、実意丁寧を以て、それを受けて行くと云う事。そこから私はいわゆる滋味豊かな心の状態、いわゆる押し頂く心がいよいよ強うなって来る。
言うならば謙虚な生活が、そこから営まれて来る様になる。言うならば有難いと勿体ないが一つになった日常信心生活が出来る様になって来る。そこからなら物が大切にされる。只、そういう滋味と言うか、そういう心の豊かさと言うか、又は謙虚さなしに、只、頭で割り出した所の物の考え方、頭から割り出せた所の、言うならば薬であり注射である所からそれがいわゆる薬害。
却ってその事によって自分の行く手を狭うして行くと言った様な結果が生まれて来る。もうどこまでも、どこまでも限りなく広がって行く。どこまでもどこまでもおかげの世界が広がって行く行き方を、教祖は天恩地恩を説かれたと言う風に私は思います。折角信心をさせて頂くのですから謙虚、実意丁寧いわゆる神恩、いわゆる天恩地恩に奉謝し奉らしてもらおうと言う心。それを今日は押し頂く心と言う風に頂いて貰いましたね。
どうぞ。